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佐藤 壽三郎

Author:佐藤 壽三郎
1947年8月生まれ

趣 味 囲碁・歴史考察・墨書

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千曲のかなた: 須坂市議会議員 佐藤壽三郎
「千曲のかなた」の由来は、郷土が全国に誇れる大河 「千曲川」と、千曲川のかなたに連なる信濃五岳、北アルプスや四方の山並を超えて遠望する私のねがいです。  「千曲のかなた」を通じて私は故郷から巣立った青年たちに熱いエールと郷里の情報をおくり続けます。「ふるさとは永久に緑なりき」と・・・
北信の戦国時代の夢遥か
北信の戦国時代の夢遥か

信州は戦国時代の武将の国盗り物語を今でも如実に偲ぶことが出来る土地である。
越後の上杉謙信公、甲斐の武田信玄公が覇権を競った川中島は、須坂から僅かばかりの距離でしかない。八幡原の土塁に立ちて四方を眺めれば、山の稜線は当時の儘であり、信濃の空はどこまでも青い。頬を伝わる風に心を開けば、いつしか戦国時代のあの頃の真只中にいるような思いに馳せることが出来る。

当時は千曲川に橋は無く。渡河するには水嵩の低い季節を十分に知って置かねば、そもそも八幡原に陣を布けないし、形勢が悪いと判断した時は、陣を引き払って退散するにしても、千曲川と犀川が大きく立ちはだかるからである・・・

河川には土手や堤などなかったと思うが、土手が無い分だけ千曲川も犀川も長蛇の様に流れ、河川の一帯は湿地帯であって、武将も馬も足軽も泥んこだらけの戦を強いられたと推測するが、このことについては、川中島合戦についての書籍が数多発刊されているのでそちらを読まれたい。

ところで、古地図を見るに、仁礼の仙仁から今で言う菅平への道はなかったようだ。山道は仙仁から保科の高岡に出て、袖山そして保科に通じていることが窺い知る。上信国境にある鳥居峠に出るには、仁礼から浅間塚、宇原から宇原川の谷川を遡り黒門から山に分け入って、今で言う峰の原に出てダボスを横切り、中之沢、滝ノ入沢を越えて真田長の渋沢で、上田、真田から沼田に通じる街道に合流し、鳥居峠を経て上野の国に至るものであったらしい。旧大笹街道は菅平地籍で現在の県道162号線が当時の街道であったと言える。

ここで言いたいのは、真田一族が治めたのは信濃の小県から上野の沼田に至るベルト地域だけではなく、四阿山の北側にあ信濃の上高井郡の仁礼地区にも真田侵略の痕跡は屹度あるのではないかと思います。然し仁礼の宇原から鳥居峠を越えて上野の田代までは宿場がない。更に宇原から真田郷の本拠地まで同様に移動に時間を要すことを考えると、仁礼地域に勢力を繰り広げても、越後の上杉勢を徒に刺激するだけで、余り真田としてはメリットを感じていなかったのだろうか。

宇原から鳥居峠までのこの区間は、山賊や野武士が跋扈する極めて危険な山道であったと伝え聞く。然し山賊らも人間、根城にした館か隠れ家が、この山道のどこかに有った筈である。地図の上で平坦な土地や集落があったと思しき箇所を探している。屹度そこが後の大笹街道の要点であったかもしれないと考えるのだが、菅平は今でも本州で最低気温を観測する程の厳寒地で然も雪が深い。江戸時代になっての大笹街道でも、冬季間は通行不能な人馬が分け入ることが出来ない街道であったと思われる。

これらを勘案しても、戦国時代にロマンが広がるではないか。大笹街道を辿ることは将に戦国時代の夢遥かである。

 大笹街道資料にリンクします
大笹街道GAIDE

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