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佐藤 壽三郎

Author:佐藤 壽三郎
1947年8月生まれ

趣 味 囲碁・歴史考察・墨書

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千曲のかなた: 前市議会議員 佐藤壽三郎
「千曲のかなた」の由来は、郷土が全国に誇れる大河 「千曲川」と、千曲川のかなたに連なる信濃五岳、北アルプスや四方の山並を超えて遠望する私のねがいです。  「千曲のかなた」を通じて私は故郷から巣立った青年たちに熱いエールと郷里の情報をおくり続けます。「ふるさとは永久に緑なりき」と・・・
青春時代 1  何があっても帰らない思い
青春時代の足(改定版)

ささやかな贅沢として、私は青春時代に乗車した国鉄の電車、地下鉄、都電のNゲージを蒐集していましたが、やっとこの度「初期型特急あさま号」を入手出来、二十歳代の「青春時代の足」をそろえることが叶いました。快挙であります。

昭和42年3月下旬、就学する機会を得て上京するため、長野駅の上野行プラットホーに立ちました。ホームにはたくさんの人たちがいましたが、さして気にもせず直近に発車する列車に乗り込みました。上田駅に着いて分かったのですが、何とこの列車は臨時の「集団就職列車」でした・・・

臨時「集団就職列車」は、電気機関車に牽引された客車で、長野駅から主だった駅に停車するたびに、上京する集団就職者の門出を祝うセレモニーが催されて、プラットホームはそのための群衆で埋め尽くされていました。客車の窓を開けて別れを惜しむ家族や友人の面影は、今でも思い出されます。発車のベルに合わせて「蛍の光」の音楽が流され、汽笛と共に列車は静かにホームを後にします。このセレモニーは小諸駅まで繰り返されました・・・

当然、長野駅でもセレモニーは行われたのですが、セレモニーが終わった後に私が長野駅に着いたので、少しも知らずに「集団就職列車」に乗車したようです。私は一人旅ですが、学生服で学生帽をかぶり、手荷物を持っている様は、上京し集団就職される彼らと全く同じいでたちであり、私はいつのまにか集団就職者の一員でとなりました・・・

「あゝ上野駅」を聴く度に、私はあの日の「集団就職列車」に揺られて上京したことを思い出します・・・
この歳になって、この歌をYouTubeで聴く度に、何故か涙がこぼれ落ちます。将に上野駅に降り立った経験者にとって、生涯に亘る心の歌であり、上野駅は人生を双六に例えるならば、我が青春編の旅立ちの「ふりだし」でした・・・

鈍行上野行客車


昭和40年代には、電気機関車に牽引された列車から、長野駅から上野駅間に「急行〇〇号」の長距離電車が登場しました。学生時代の郷里と上野間は専ら、「急行信州号」か「急行妙高号」或いは屋代駅から長野電鉄河東線で郷里まで直通の「急行志賀号」でした。

帰省の折は学割で浮いたお金で、横川駅で当時300円であった釜めしを買い求め、碓氷トンネルから軽井沢駅までの間に釜めしをほうばるのが楽しみでした。急行電車は窓を開けることが出来たので、碓氷峠を登り浅間山が見えると、私は窓を上げて信州の風を頬に受け、故郷信州の空気を力一杯吸い込んだものです・・・

急行信州号4


「特急あさま号(489系)」の出現は、急行に比べると凡そ30分、長野ー上野間の乗車時間が短縮され、故郷がぐんと近くなりました。急行と違い特急は「座席指定」となり、ホームに並ばなくても指定された座席に確実に座れるようになり、指定料金が付加されますが、とても便利と感じました。
ボンネット型(こだま型)でアイボリーのモダンな車体色が信州の山並みに映えました。座席も急行に比べると座り心地が雲泥の差でした。

特急あさま・初期型


その後、特急あさま号はボンネット型から、安全性を高めるためなのでしょうか、運転台がより前面に押し出された鼻ペチャの改良型が登場しました。車体色は山岳地帯を走るイメージからなのでしょうか、濃い緑と雪を連想させる白に変わりました。長野新幹線が開通し、横川~軽井沢間が廃線になるまで、この型の特急あさまが上野・長野間(白山は金沢まで)を走りました。

特急あさま


白山台の東洋大学に、銀座四丁目のかの和光の隣で、晴海通りと文化通りに面した、電光掲示板が目印の浜一ビルにありました法律事務所に通うために、足掛け9年余りを、雨の日も、風の日も、はたまた寒風吹き荒れる雪の日も、毎日乗車した営団地下鉄「丸ノ内線の赤に白のラインの電車」は、私の青春そのものを乗せて走りました・・・

marunouchi2


大学に通学するに、利用した都電を・・・

都電3


かって、都電2系統は東洋大学前(曙町)と三田の間を走っていたらしいが、昭和43年当時には既に廃線されていて、春日通りは地下鉄工事が進められていました。そのため、大学には国電の水道橋駅か巣鴨駅から都バスに乗らなければならなかった・・・
幸いにも大学から東に徒歩5分ぐらいの本郷通りに、都電19系統が走っていて、本駒込⇔本郷三丁目間を学割で、確か420円か480円/月で乗れた記憶があります。通学にはこの都電を利用しました。
 当時乗車した都電は写真のような鮮やかな黄色でなく、長年の風雪に耐え、然も経年劣化でくすんで黒みかかった黄色に変色してしまった車体でしたが、私にとっては頗る味のある日焼けした逞しい都電に見えました。

地下鉄丸ノ内線本郷三丁目駅は、都電の本郷三丁目停留所から歩いて2分ほどの、本郷通りから地下鉄利用者のための専用通路を入ったところにありました・・・
 私はホームで「中野富士見町行」が来るまで待って、この電車に乗車しました。これに乗れば万一眠りこけても、中野坂上での乗り換えも不要であり、荻窪まで行くようなこともなく、更に「中野富士見町行」は終点駅(車庫)であることもあり、車掌さんが起こしてくれます。余程のことが無い限り、2、3本待っても「中野富士見町行」の電車を利用しました。

気が滅入ると、これらのNゲージに見入っては、青春時代のあの闘志と英気をもらい受けていいます。Nゲージの魅力とは、我が心底に宿る青春時代へのノスタルジャをくすぐる以上に、何故か闘志を与えてくれます。


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