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佐藤 壽三郎

Author:佐藤 壽三郎
1947年8月生まれ

趣 味 囲碁・歴史考察・墨書

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千曲のかなた: 須坂市議会議員 佐藤壽三郎
「千曲のかなた」の由来は、郷土が全国に誇れる大河 「千曲川」と、千曲川のかなたに連なる信濃五岳、北アルプスや四方の山並を超えて遠望する私のねがいです。  「千曲のかなた」を通じて私は故郷から巣立った青年たちに熱いエールと郷里の情報をおくり続けます。「ふるさとは永久に緑なりき」と・・・
鮨の極み
鮨の影の主役は山葵だ

地方の寿司屋事情は、回転寿司が普及したこともあって、中堅の江戸前寿司屋は挙って「予約制」を導入して生き残りを図った。その煽りを食らって飛び込みで寿司屋には入れなくなったのは、実は常連客である。誠に至極残念である・・・

老舗の割烹が時代の宴席の変化と官官接待の批判の波を真面に受けて、社交場の王座から一気に曳けたが、割烹は日本料理を小僧時代から修業をして技を極めた板前が作る料理を提供し、出される酒も(ビールを除いて)、その割烹が創業当時から出された名代の銘酒であって、これが又料理に馴染んで不思議に悪酔いがしなかった。広々とした座敷で友人と向かい合って、或いは商談の成立の祝いの場としての一席であったが、脇息に肘を時に置いては、綺麗所に酌をしてもらい乍ら盃を重た日々が遠い遠い思い出になりつつある。割烹で綺麗所に酌をしてもらいながら盃を重ねるは、将に男子の本懐とも言えた。割烹が一軒店をたたみ、更に又一軒と廃業して連鎖的に割烹は衰退し、脇役を務めてくれた綺麗所も今は須坂に誰一人いない・・・

割烹が斜陽になって巷から消えると、宴会をする小部屋を有していた中堅の寿司屋や蕎麦屋が割烹の役割を演じるようになった。宴席に並ぶ料理の皿数は割烹と同じと言えるが、口にする料理は正直言て一味違うように感じる。割烹と違って宴席もがやがやと喧騒で、割烹の座敷にあったあの「ゆったり感」がなく、私にはどこか物足りない。宴席の〆は・・・割烹は雑炊か変わりご飯、鮨屋は当然に鮨、蕎麦屋は勿論蕎麦となる。〆にあっては、これは餅屋は餅屋で実に旨く感じるが・・・

閑話休題
今夜は、女房が婦人会の食事会に出かけた。そこで久しぶりに鮨を食そうと思ったが、昔は飛び込みが利いた鮨屋も今は予約しないと入れてくれない。そこで予約のいらない寿司屋に出向いた次第。好物の肴の握りを注文した。やがて目の前に鮨が運ばれてきた。摘まんで口に入れて味わうが、おっと何かが足りない。この足りないものは何か・・・

鮨ネタを捲ってみて判った。わさびが山葵でなく合成されたワサビで、然も申し訳程度の量のワサビであったからだ。これでは少しも鼻にツンと来ないではないか。シャリも職人が握った丸みがなく、機械で型押しした四角張ったシャリであることにがっかりした・・・

二十歳代を東京の銀座で過ごした私だが、盆と暮れは恩師に築地の鮨屋に事務所全員が連れて行って頂き、魚の船盛から握り鮨を鱈腹ご馳走下さるのが恒例であった。事務所に入り、生まれて初めて築地の鮨を食べたとき、鮨ってこんなに旨いのかと感激し、正月帰省した折には「築地の鮨の旨さ」を熱心に、母や姉弟に東京の土産話を聞かせたことを今でも忘れない。何時かは母に築地に連れて行って、この鮨を食べさせてあげようと思ったが叶わず終いであった・・・

三十代当初に東京から須坂に帰って直に、二学年後輩が鮨屋を営んでいることを知った。少年時代からの付き合いがある彼が経営することもあったが、彼が作る酢飯が甚く気に入って、青年・壮年時代をこの鮨屋の主である彼が亡くなるまで、この鮨屋に仲間と押しかけては飲み食いをしたものである。宴席の上がりに彼が握ってくれる鮨を食べることは、当たり前の食べ慣れた味であって決して特別のものと感じなかった。当時はこのことが贅沢とは少しも思っていなかったが、然し彼が惜しくも五十歳で亡くなって始めて大切なものを失ったことを知った・・・

誰しもが認めることだが、鮨は馴染みの鮨屋の酢飯の塩梅が全てであり、気に入るとそこの鮨屋にしか足を運ばない。鮨屋が稀にしか倒産しないのは、将に茲にあると言える。鮨屋はそれぞれの味の虜になった贔屓客が支えるものである。

今、一人で鮨を口にしながら、後輩の彼が握ってくれた酢飯とネタと醤油更に親方の指で練り込まれた山葵の余韻が懐かしく、若死にしてしまった彼を想い浮かべた。願わくば、彼の握った天下一品の鮨を今一度食べたいものである。


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