急行・信州✕号の思い出 昭和42年春、大志を抱いて上京しました。当時は長野から軽井沢まで客車を電気機関車が牽引し、碓氷峠は急こう配のためアプト式が採用されていたので、特殊な機関車を増結して峠を下った。横川駅では名物の「釜めし」がホームで売っていたが、姉が「門出の祝い」と言って作ってくれた「いなり寿司」をほうばって昼食とした。列車は高崎、熊谷を経て雑木林の中を長らく走り抜けて大宮に着いたが、姉が作ってくれた大握りのいなり寿司の折箱を開けたら18個も入ってていたが、残すのももったいないので横川から食べ始め大宮で漸くすべてを食べ尽くした。パンパンの腹になって聊か難儀した。 列車は荒川を越えて漸く上野駅に着いた・・・
その後、電気機関車が牽引する列車は各駅停車と準急になり、緑色と山吹色の旧国鉄 クハ169系の電車が登場した。列車名は「急行 信州」と名付けられた。学生時代はこの[急行・信州]が郷里を結ぶ足となった。長野・東京23区間の乗車賃が学割で1030円か1080円で、急行券代300円とで郷里と往復できた時代であった。学割で急行代が賄えたが、当時は1ヶ月18,000円で生活できた時代の話であるが、矢張り今思えば上野までの電車賃は当時も高かったんだと感じる。因みに横川の「釜めし」は当時250円であった。
「初心を生涯忘れるべからず」の心意気はいまでもある。この闘志を忘れることのないようにと、上京当時の「 クハ165-132」の鉄道模型を書棚に置くこととした。老いての怠け癖を抑えるためである。机から書棚に目をやると、青春時代に郷里と東京の往復の足として利用した、「急行・信州」の模型がこちらを睨んでいる。学生時代に怠けていると、志を同じくする勉強仲間内が互いに『志を忘れたか?ちんたら・ちんたらするな!』」と気合をいれ合ったたものであるが、亡き友の声が鉄道模型から浴びせられやしないかと、気を取り直して机に向かう。
上京当初は、信越本線も列車は各駅停車、準急と急行があったが特急は未だなかった。急行でも長野⇔上野は凡そ4時間も要した。それでも小学生の時に東京に行ったときは、蒸気機関車に6時間も揺られて行ったことを思えば、東京はずいぶん近くなったと思えた・・・
憧れの東京は、郷里より遠く離れるところに意義がある。何とかして一日も早く志を成就して、須坂に帰ろうとする思いの先が、「急行・信州」であったからだ。
時代が変わり、碓氷峠間の複線化と電気機関車の改良でスピードアップが図られ、「特急・あさま」の出現で上野まで3時間20分位になり、更に長野新幹線(現・北陸新幹線)が開通して1時間20分位まで短縮された。長野と東京の距離は変わらないが、電車に乗車している時間が短くなった。このことは、ビジネスマン等には有益であるが、果たして時間や余暇がたっぷりある学生にとって良かったかは疑問である。新幹線の登場で在来線の信越本線の碓氷峠間である軽井沢⇔横川が廃線となり、在来線で関東にでることができなくなり、上野駅まで行けなくなってしまったことが残念で堪らない。信越本線で高崎経由田端操作場への直の貨物列車が、篠ノ井線、中央東線の迂回でしか関東に運べないことは、遠望「するにCO2問題が課題になる昨今、鉄道輸送こそ環境にやさしいことを思うとき、更に北信・東信経済圏にとって、矢張り当時僕が提唱した「信越本線存続」を聞き入れて、存続運動を強烈にすべきでなかったかと今でも思っています。
今日は、送り盆である。故人が黄泉の国に戻られる日である・・・ 仏壇に手を合わせ、頭を垂れて万感の感謝を念じて、門から送り出そう・・・
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