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佐藤 壽三郎

Author:佐藤 壽三郎
1947年8月生まれ

趣 味 囲碁・歴史考察・墨書

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千曲のかなた: 前市議会議員 佐藤壽三郎
「千曲のかなた」の由来は、郷土が全国に誇れる大河 「千曲川」と、千曲川のかなたに連なる信濃五岳、北アルプスや四方の山並を超えて遠望する私のねがいです。  「千曲のかなた」を通じて私は故郷から巣立った青年たちに熱いエールと郷里の情報をおくり続けます。「ふるさとは永久に緑なりき」と・・・
三位一体
人生は両手で水を掬うが如し

つらつらと人生を思い返せば、将に両手で水を掬うかの如く、掬った水を全て口に運びこむことは、杓で水を掬いて口に運ぶような訳にはいかない事を知らねばならない。極めて効率の悪いものである・・・
掌の隙間から落ちたる水を何と見るかである。この水を私は「余剰の水」と名付けたい。所詮、人生は長いようでいて、然し万人が同じ長さを以って人生をおくる訳でもない。親しき幼馴染みや同級生との永訣に心痛めること、最近は頻りなるに付け、人の世の無常を知らされる・・・

少年時代に、あれもこれもと興味をもって、色々と手を出してみたことは誰しもが経験したことであるまいか。やがて少年はあれもこれもから選択を余儀なくされる。時間的に、経済的に、才覚素質的に、健康的に或いは仲間との不和(いじめ)から生ずる離脱、更には社会的外圧による断念等と理由も様々であるが、、結果的に生きていくための人生の選択を強いられることは確かである。

この人生の選択、即ち「人生のふるい」は、少年の能力からすれば超難題でもある。この場面に大きな影響を与えるのが、「邂逅」という偶然であるようでいて、実は必然である人とのめぐり会いに他ならない。この影響力の第一は両親や肉親であるが、自分で相手を選ぶことを許されない肉親の宿命的な出会いである。第二は、友がき、恩師、恩人、師匠、親方と言われる人たちである。「邂逅」という摩訶不思議な手立てによってめぐり会い、以後の人生を大きく左右する程に影響力を与えられ、肉親以上に深い関わりを持つ誇れる人財である。最も重要な邂逅に他ならない。第三は人財ではないが、私の場合は書物であった。

この三様が恰も「巴」」の図柄のように、一体となって相関関係を保ちながら人生を形成するものである。即ち三位一体と言えまいか。茲に登場するのが両手で掬った「水」である。換言すれば、掌で掬う水は「青春時代の志」である。志を叶えるには様々な条件が必要であるが、掌で掬ったにも拘らず零れてしまう雫を、これも己に与えられたロスの条件と思えば腹も立たない。宿命や因縁や柵が容赦なく掌から水を奪うものであるが、若いうちはこのロスの意味するところが中々理解できない。理解できない故に、焦ったり、失望したり、挫折したりとの日々が繰り返しであるからだ。然し、これに屈することなく水を数多く掬えばいいのであると気づく時がある。当然ハンデイを抱えていれば、志を達成するまでには全ての条件を備えた人よりも、遥かに達成或いは成就するまでに時間がかかるものであるが、そんなことは百も承知で立志したのではないかと、青春時代は自分に言い聞かせたものである。

前期高齢者というラベルを張られても、私は「まだまだ」の気持ちが募る。青春時代に過ごした日々の生活パターンが生涯抜けきらないでいる様だ。「巴」の大きさは人様々であるが、我が「巴」こそ宿命の輪であり最良の輪であると肝に銘じて、日々を過ごすことが「使命」を抱くことが可能になるものではないか。いうなれば「万感の感謝」に他ならない。花の偉さは、人様がみているから咲くのではなく、人里離れた山中で誰もみていなくても、花の使命と宿命と矜持をもって咲く事に偉さがある。そんな人になることを志して早や五十年の歳月を数える・が、人は花と違って毎年花を咲かすものではない。毎年続けるものは不断の研鑚でしかない。そこに花との違いがある・・・


H26孔雀サボテンの花

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